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自殺未遂

※注意:自殺未遂の具体的な描写が含まれます

日記
 五月二十二日。午前十一時服毒、一、二時間後激しく戻し始めて気が付けば十四時過ぎ、母に電話して精神科へ。総合病院へ移り処置(採血、心電図、血ガス等)を受ける。服毒後三、四時間経っているので胃洗浄は間に合わない。ひたすら「点滴をじゃかじゃか入れて」輸液で体内を洗い流す。「ニコチンがまずいですね」の一言に震え上がる。夜にやっと吐き気が収まり、手足の痺れは夜明け近くまで取れず。
 五月二十三日。様子見と精神病院のベッドが空いていないのとで一日点滴に繋がれる。朝戻したので点滴で吐き気止めを摂り、昼から普通に食べるようになる。自分が臭くて臭くて苦しい。毛穴からニコチンとカフェインが出ている感じ。夜は完食。手足の痺れようやく取れ、夜は熟睡。枕が固くて首と肩がバキバキに凝る。

 生きているのがあまりにつらくて、大学時代から四年間ほど自殺計画を練りに練っていたのだが、ついに決行した。うつ病ではないが、社交不安障害とそれに伴う抑うつ状態ですっかり思いつめていたのである。遺書を書き、臓器提供欄に○をつけた保険証を机に置き、スマホの中の見られたくないデータやSNSアカウントを削除した。この頃太宰治の『人間失格』や『もの思う葦』、芥川龍之介の『或旧友へ送る手記』や『或阿呆の一生』など鬱々とした文学作品ばかり読み耽っていたが、芥川の『歯車』はすごかった。死にたい気持ちにぴったりしっくり来て、もう私には自殺しかない、自殺をしよう、と後押ししてくれたありがたい本である。本当にすばらしい作品だが、今現在抑うつ気分にある人にはおすすめしない。

 さて自殺当日。家族が全員出かけてから、帰ってきた時には死んでいるつもりである。洗濯や片付け等家事を済ませ、どういう心理だったのか分からないが、なぜかレモンカード(レモン果汁入りのカスタードクリーム)まで作って「二、三日中に食べてね」とメモを添えておいた。時刻は午前十一時。まず、あるだけ(の導眠剤確か十二錠ほど)と吐き気止めを飲む。それから致死量のニコチンとカフェイン錠剤を飲むのだが、これが非常にまずかった。味である。見た目はコーヒーそのもののニコチン水溶液は舌にびりびりとした刺激があって、苦いともなんとも言えないただただまずい味、あきらかにこれは人体に有害だと分かるような味だった。畳を食べたことはないが、畳を食べたらこんな味がするだろうというような、埃っぽい草の香りもあった。とにかくあれは毒だった。ニコチンとカフェイン、二種類の毒にしたのは、一種類では心もとなく確実に死ねるようにと思ったからである。口直しに、好物のブランデーを今まで飲んだことのなかった濃さでひとくちあおって、それから布団に横になった。
 布団といっても、「人は死ぬとあらゆる体液が流れ出る」という予備知識をダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』辺りで読んで学んでいたので、シーツの上には百均で購入した広い防水テーブルクロスを敷いており、体液で布団や床を汚す心配はないようにしてある。せっかくだから毒が効いてくるまでの記録を録っておこう、という魂胆で枕元に用意していたノートに、思いついたことを書いていく。ニコチン溶液はまずかったよとか、私のことは気にせずに家族の皆は幸せになってねとかそういうことを書いた気がする。いくら穀潰しのニートでも、私が死ぬことで家族が幸せになるはずはないのだが、抑うつ状態になるとこの辺りの判断がつかなくなるようだ。計画では、導眠剤が効いてぐっすり眠りに就いた後に毒が回って寝ているうちに死ねる、という予定だった。なぜかこの時、頭の中でマルコム・アーノルド作曲の「パドストウの救命ボート」が流れていた。

 じわじわとニコチンが血中の酸素供給を妨害し始めたのか、手足の先と頭がひんやりと貧血のように痺れていく。このままゆっくり死んでいくのかと思っていたら、服毒してから二時間ほど経って、ものすごい吐き気が襲ってきた。吐いたら死ねない、と思う余裕もないほどの吐き気、吐き気、吐き気、あらかじめ用意していたごみ箱に吐くも、ごみ箱一個じゃ足りないほどに戻した。テーブルクロスの上にもゲロゲロ吐いて、もうこれ以上は出ないだろうと思っても出るわ出るわ、ニコチンとカフェインが溶けたらしい茶色い吐瀉物が驚くほど胃から溢れてくる。溶けきれなかったカフェイン錠剤が直径一ミリほどの小さなピンク色の粒になって出てきた。いったん吐き気が収まった隙に脱いだTシャツで枕元を拭き、ああだいぶ戻したけど今度こそ死ねるかな、と横になるとまた吐き気。ごみ箱は吐瀉物とティッシュで埋まっているがそれでも吐き続ける。とにかく吐き気がすさまじい。吐いて疲れて横になってまた吐いて、横になっても起き上がっても己の吐瀉物の臭いがまた吐き気を催して戻す。戻し続けるうちに段々疲れてきて、頭も冷静になってきた。とにかく臭い、気持ち悪い。吐きながらノートに「これで死ぬなら死ぬけど、死ねなかったらまずシャワー浴びたい」「シャワーか湯灌か浴びさせてくれ」と書き殴りながら吐く。
 吐きに吐くうちに、「たぶんこれは死ねない」とうすうす気付き始めた。そこで二個目のごみ箱が置いてある廊下までふらつく身体で這いずってそれを抱えながら階段を一段一段降り(その最中も戻しながら)、五百ミリリットルペットボトルのお茶を飲み飲みトイレに吐いて、飲んでは吐き、飲んでは吐き、二本目のペットボトルを取りに這い出した辺りでもうふらふらになって床に寝転がってしまった。「自殺未遂は保険が利かないらしい」といういらぬ情報をネットの海で聞きかじっていたので、母の携帯番号に電話する。ごめんお母さん、自殺しようと思って毒を飲んだんだけど死ねそうにない、病院連れてってくれないかな、みたいなことをへろへろになって笑いながら言った気がする。
 すぐに母が職場から帰ってきてくれた。その間に自分は吐きながらもベルトを外して楽にし、力を振り絞って新しいTシャツに着替えていた。さすがに上半身裸で病院へ行きたくないと思うくらいにの理性はあった。ひとりでは立ち上がれないので母の肩を借りて車に乗り、かかりつけの精神科に連れて行かれた。車の揺れはひどく、車の中でも吐き続けた。

 精神科に着いて車椅子に座らされ、起き上がっているのがきついと訴えると処置室の寝台に寝かせてもらえた。日頃からお世話になっている臨床心理士さんが来てくれて、私の手を握って話を聞いてくれた。ごめんなさいもうしません、生きているのがきつかったから死のうと思ったけど死ぬほうがきつかった、凝りました、というようなことを泣き笑い戻しながら訴えた。この時母が始めて鼻をすすったのだが、これはこたえた。
 案内状を書いてもらい、その後すぐに市立の大きな総合病院へ移った。精神科を出る時、ふらふらになりながらも私がへらへら笑っているので、看護師さんには「なんて元気な自殺未遂患者」と言われたらしい。もうこの時には、死にたいという気持ちはなくなっていたようだ。とにかくすっきりしたかった。総合病院のベッドに横になり、飲んだ薬と量を伝えて、採血三本、初めての血ガス等の処置を受ける。その間にも「ごめんなさいもうしません」を言うと、「そうですね、もうしないでください」と苦笑まじりに返された。「胃洗浄は死ぬよりきつい」という情報をネットで仕入れていたのでびくびくしていたが、服毒後三、四時間経過しているので胃洗浄では間に合わないらしい。そのため点滴で輸液をどんどん流し込んで血液を洗い流すことになった。胃洗浄の恐怖が去ってほっとしたが、看護師さん同士の会話に聞こえた「ニコチンがまずいですね」の一言には震え上がった。
 部屋は運よく個室を用意してもらえた。落ち着いてくると、昼間吐瀉物の中でのたうち回ったせいで、自分が臭くて臭くて不快で仕方ない。しかも手足(肘から先と膝から先の辺り)がやたら痺れてもぞもぞ動き続けなければならず、眠ろうにも眠れない。寝たら、寝ている間に手足が麻痺して動かなくなるのでは、という恐怖もあった。しかしあれだけカフェインを摂ったのだから眠れるはずがない。胃が空なのとそもそも刺激物を致死量摂ったせいか、胃も痛い。臭さと痺れと気持ち悪さと痛さにさいなまれながら、付き添って部屋で寝ていてくれる母の寝息を聞いていたが、こんなに長い夜はなかった。やらかしたことがことなので、再度危険な行動に出ないよう家族が付き添っているよう病院に言われたのである。朝になれば回復する気がして、とにかく早く夜が明けてほしかった。午前三時くらいまでは起きていた気がするが、それからやっと寝ついた。

 朝起きると、吐き気も手足の痺れもずいぶん治まっていた。頭の中では、なぜかベートーヴェンの交響曲第六番「田園」の第一楽章冒頭が流れていた。毒を飲む時には「救命ボート」が流れていたが、あれは自殺が未遂に終わり生き延びる伏線だったのだろうか。様子見と精神病院のベッドが空いていないのとで、もう一晩点滴に繋がれていることになった。しかし臭い。臭いので、よろよろ立ち上がって母に頭だけシャンプーで洗ってもらうも、それでも胃液とカフェインとニコチンの臭いが取れない。汗からも毒物が排出されているのか、毛穴という毛穴が臭く、膝を嗅いでも臭かった。起き上がっているとふらつくしTシャツの襟ぐりが臭い、寝ると自分の頭が臭い、どんな姿勢を取っても臭く、これは苦しかった。痛くもかゆくもないはずなのに、ただ臭いというだけのことがこんなにつらいとは知らなかった。まだ水を飲んでも戻すので、運ばれてきた朝食には手をつけなかった。その後吐き気止めを処方してもらい、昼食からなんとか食べられるようになった。もっとも、一日半食事をしなかっただけで顎の筋肉がすっかり退化してしまったように、口も開かない、噛むと疲れる、なかなか食事が進まなかったものの、夜は完食できた。
 死にたかった理由や経緯を両親に洗いざらい話してしまうと、臭いはともかく気分はすっきりした。のたうち回って苦しんで命拾いした今となると、どの理由も何も死ぬようなことではないな、と思えるから不思議である。たぶんこの時には抑うつ状態は治っていて、ただ自分の臭さにいらいらしているだけだったと思う。
 ベッドから動けずできることも気力もないので、ただ親と話したりテレビを観たりしていたが、確かたまたまこの日テレビでハプスブルク帝国の歴史番組をやっていて、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の言葉が紹介されていた。

私は生きている しかし いつまで生きるのかを知らぬ
私は死ぬ しかし いつ死ぬのかを知らぬ
私の旅は続く しかし どこへ行くべきかを知らぬ
不思議なことに 私は幸福だ

これを聞いて親とげらげら笑い合えるくらいには、心身ともに回復していた。私は幸福だ!

 一晩ぐっすり眠って翌朝になると、生命力と食欲がみなぎっていた。点滴を外してもらってひとりでシャワーを浴びたが、これがもう幸せでたまらなかった。頭は念入りに二回洗い、毒物を含んだ汗をすっきり洗い流して、そのとてもたまらない快適さを噛み締めた。「臭くない!臭くないってすばらしい!頭も手も臭くない!嬉しい!」とはしゃぐくらいには元気になっていた。臭くない、清潔である、これだけで生きている意味だか意義だか、とにかく人生の幸せはある。食事は朝昼きちんと食べることができた。食べ物がおいしく感じられることの幸せがまたすばらしかった。ふとした拍子に『人間失格』の葉蔵よろしく「ふふふふ」と笑いが出てくる。病院の枕が固く合わなかったため首と肩がバキバキに凝ったが、点滴に繋がれたまま肩をぐるぐる回して、起き上がっていてもめまいがしない喜びを満喫した。とにかく、食べなかったぶん弱った他は、心も身体もぴんぴんしている。
 血液検査の結果もよくなったらしく、午後には精神病院へ転院することになった。私の旅は続く。私は幸福だ!