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週間日記(2024/06/17-06/23)

2024/06/17 Mon.

 オンラインカウンセリング2回目。マインドフルネスをやるよう熱心に勧められた。暇というか、手持ち無沙汰というか、マインドフルネスって退屈で苦手なんだよなあ…。「働けるようになりたい」という悩みについて、同じ職場で働く人達が「出会ったばかりの他人」の状態の時よりも、「ある程度親しくなってきた顔馴染みの知り合い」の状態になった時の方がしんどくなるので仕事を続けられなくなると話した。だから、これまでやってきた仕事のほとんどは働き始めて3、4ヶ月経つと苦しくなってきて、半年経つ頃には自殺を考えるほど追い詰められてしまう。その場限りの初対面の人に対してももちろん緊張して気を張るけど、これからまだ付き合いが続きそうな人間に対しての気の張りようはその比ではない。「知り合いが怖い」という長年の困りごとに対して、臨床心理士の先生が意外そうな反応をしていたのが新鮮だった。確かに、見ず知らずの他人よりも知り合いの方が圧倒的に苦手だというのは私の中ではすっかり当たり前になっていたけど、よく考えると、多分普通は親しくなってきた人の方が接しやすいんだろうな。そうか…。
 夜、とらふくの絵を描いたら楽しかった。動物の絵は難しくて書くのに苦手意識があったけど、写真を見ながら描くと格段に描きやすくて楽しいことに気付いた。幸い、猫の資料写真なら無限にあるし。

2024/06/18 Tue.

 久し振りに少し漫画を描き進めた。ペンタブはやっぱり扱いが難しい。今は日々のできごとや考えを主に日記の形で出力しているけど、以前は漫画として表現するのに夢中になっていた。漫画には漫画の良さがあるので、こちらもぼちぼち描いていけたらなと思う。
 父方の曽祖父が描いた絵を久し振りに見返したくて、以前写真に収めたデータをUSBの中から探した。膨大な枚数の写真の中から見つけ出した2枚の画像を見て、やっぱり絵が上手いなあと感心した。曽祖父は戦争で亡くなったそうで、もちろん会ったことはないけれど、スケッチブックに鉛筆でちまちまと描かれた小さなイラストの数々を見ていると、なんだか親近感が湧いてくる。私もこういう小さい絵をささっと描くのが好きだから、ひいおじいちゃんとお絵描きしりとりができたら盛り上がるだろうなと勝手に想像してしまう。

2024/06/19 Wed.

 USBに溜め込んだ、2010年代に撮った写真を見返した。今と変わらず、植物とお菓子の写真が多い。子どもの頃に習っていたバレエのレオタード、野山で見つけた見事なテングタケ、大学の講義中に白河夜船で書いたふにゃふにゃの文字、初めての一人暮らしを満喫していたアパートの部屋、いくつも作ったフェルト製のケーキ、お気に入りだった服や雑貨、半年間だけ正社員をやった時の飲み物とミニトマトしか入っていないレオパレスの冷蔵庫など、思い出の写真がたくさん出てきて懐かしかった。人が撮ってくれた自分の写真を見ると、本当にがりがりに痩せていてびっくりした。当時は特に気にしていなかったけど、20kg増えた今の自分から見ると、不健康そうな痩せ方にさえ見える。とはいえ、現在はやや太り気味なので、ちょっと羨ましくもある。
 今日も少し漫画を描き進めた。残るはペン入れがあと2ページ。

2024/06/20 Thu.

 5年前に考えて放置していた漫画のネタを、やっとペン入れして仕上げた。これで今の所、ネームまで考えた分のネタは全て漫画にしたことになる。多分。サイトに載せた分の漫画を数えたら、合計249ページもあって(きりが良いのであと1ページ欲しい)、よく描いたなあと我ながら感心するような、呆れるような。考えや悩みを四コマ漫画にすると、客観視できるというか、自分の中で扱いやすくなるというのか、当時は昇華の方法としてこれ以上のものはなかった。今はもっぱら漫画よりも文章として日記に書き連ねる方法を採っているけど、漫画には漫画の良さがあるので、溜め込んでいるネタをそのうちまた描けたらいいと思っている。私は自分の自己顕示欲を持て余してうんざりすることが生きていて多々あるけど、こうして何かしら自己表現しないと生きていけない人間なのだろうと最近は良い意味で諦めがついてきたような気もする。
 梅雨入りして最初の、スマホの緊急速報が鳴った。大雨による高齢者等避難と避難所開設の通知だったので、まだ慌てなくては良いものの、この音はとにかく心臓に悪い。4年前の水害の前夜もこの音がひっきりなしに鳴っていて、その晩は大して眠りもせずにせっせと飲み水やタオル、雑巾などを二階へ運んだり、トイレの逆流防止の対策をしたりして過ごしていた。あの時のざわざわした気持ちを思い出して、ただでさえ土砂降りの雨が降っていて不安になるのに、この通知音が余計に不安を煽ってくる。危険に対する正常な反応の範疇だとは思うけど、以前飲んでいたような不安を鎮める頓服薬を梅雨の時期だけ処方してもらおうかという考えさえ浮かんだ。
 雨が不安でも生活はしなければならないので、ちゃんと晩ごはんを作る。鶏肉と卵のさっぱり煮が特においしくできた。できたての温かいごはんを食べると、随分ほっとした。

2024/06/21 Fri.

 朝、目が覚めるとぴったり9時だった。10時間半も眠っていたことになる。寝すぎてちょっと頭がぼうっとするけど、心身がしっかり休まったという感じが確かにある。おろそかにしがちだけど、やっぱり睡眠って大事なんだなあと当たり前のことを思う。
 昨日の大雨はどこへやら、今日はよく晴れている。明日以降はまたしばらく雨が続くので、今のうちにと庭仕事に繰り出した。収穫時期の終わったボイセンベリーを剪定し、枝豆やにんじん、大葉、ひまわりの芽を間引きして、枯れ始めたジャーマンカモミールを引っこ抜き、畑の草取りをした。2時間ほど作業をして切り上げると、着ている服が汗でぐっしょりと濡れて重たくなっていた。家に戻ってぬるめのシャワーを浴びると、信じられないほどさっぱりした。毎晩面倒くさがりながら渋々入っているけど、お風呂ってこんなに良いものだったのか。塩分補給に塩昆布を食べると、塩気と旨味が身体中にしみ渡るようでやたらおいしく感じられた。この夏最初のすいかを冷やしておいたので、大きく切り分けてかぶりつくとこれがまたおいしい。すいかのおいしさは、暑さの中でたくさん汗をかいた後にこそ本領を発揮するものだと思う。汗を流してすいかをたらふく食べて、身体中の水分が新しく入れ替わったような心地がする。今、私の血管の中には血液じゃなくてすいかの果汁が流れているんじゃないだろうか。昨日は不安で心身が硬く縮こまっていたような状態だったけど、今日の私は陽の光を浴びて汗を流し、土と植物に触れ、旬の果物を食べ、生命力が充填されて満足してくつろげている。また雨で不安を感じる日々はしばらく続くとしても、明日の自分は今日のような不安を感じず日差しの下で満ち足りているかもしれないという希望や期待は忘れないようにしておきたい。

2024/06/22 Sat.

 なんとなくだけど、昨日からとらちの動作が少しゆっくりな気がする。食欲もあまりないようだし、どことなくしんどそうな表情をしているように見える。私の杞憂であればそれに越したことはないけど、心配。
 先日買った『長い読書』(島田潤一郎、みすず書房)を読む。引き込まれて、ほとんど一気に読み終えた。短いエッセイが多いから、SNSに慣らされきって長文を読む気力体力がすっかりなくなった自分にも読みやすい。やっぱり読書っていいなと思えて、嬉しかった。
 読書を楽しめた喜びに味を占め、寝る前にベッドで太宰治の『晩年』を少し読んだ。久し振りに読み返してもやっぱりおもしろい。

2024/06/23 Sun.

 「雨が続いているから、また家が浸水したらどうしよう」という不安と、元気がなさそうに見えるとらちの体調が心配なのと、もう何千回何万回と考えた「どうして自分は普通のことができないのか」という慣れ親しんだ自己嫌悪とが爆発して、久し振りに死にたさを味わった。久し振りと言っても、普段は蓋をしたり目を逸らしたりしているだけで、ゼロになっていた訳ではない。今こそ「メンタル終わり箱(メンタルが終わった時に温かい飲み物を飲んで持ち直すための、ちょっといいドリップコーヒーや粉末スープを入れた箱)」を開封すべき時だと思ったけど、自室の床に伸びたきり動けないので、ひたすらスマホを眺めるしかなかった。「死にたい」「つらい」「社交不安障害」などのワードをTwitterで検索しては、自称カウンセラーの無責任で自己陶酔的な発言に憤ったり、センシティブ指定無しに投稿された生々しいリストカットの写真にぎょっとしたり、もちろんそうしてタイムラインに張り付いていて気分が晴れるということはけっしてない。自分でも「SNSを見なきゃいいのに」と内心呆れ果てた。
 先日のオンラインカウンセリングでは、私の不安や考えは基本的に取り越し苦労で考えすぎなだけという旨のことを言われた。それで「なんだ、考えなくてもいいことなのか」と安心できたら良かったものの、こちらが真面目に悩んでいる内容を考えるに値しないものだと一蹴されたような被害妄想をこじらせてしまった。これもきっと、考えすぎだと言われるんだろう。ニュートラルな問題解決思考とマインドフルネスによって手放すべき雑念との違いは、考えていて「うっ」となるものだという。「また水害に遭って家が浸水した時に備えて、防災準備をしておこう」という考えは、私にとってはかなり「うっ」となる。せっかく日常の暮らしを取り戻した我が家がまた大量の泥に塗れると思うと絶望したくなるし、万が一被災した時に水や電気が復旧するまで自宅での垂直避難でやり過ごすための備蓄が万全かどうか、考えるだけで途方に暮れる。また、猫があまり食事を摂っていないことで身体が弱ったらいけないからと、食べられそうなものを模索して与えてみたり、ストレスになりそうな要因を除こうとしたり、「もしも何かしらの病気だったら」を想像して今できることをやるのだって、「うっ」となる。もちろん、人並みに働けるようになるために仕事について考えるなど、勘弁してくれと思わず誰かに泣きつきたくなるほど「うっ」となることだ。これらの問題は自分ではあくまで建設的に考えているつもりだけど、第三者から客観的に見ると単なる雑念に過ぎないんだろうか。考える必要のないものだと切り捨てられるよりも、「不安や問題、イレギュラーな事態などに向き合った時に出てくるごく自然な反応」とか、「これまで生きてきた中で身に着けざるをえなかった考え方」だとか、なんでもいいから肯定してほしかったなと勝手なことを考えている。これも雑念。
 政治や社会のことについても、分からないなりに憤ったり、落ち込んだりしている。どうしてイスラエルとそれを支持するアメリカなどによる虐殺を私達は止められないのか、どうしてパレスチナの人々が「ハマスが隠れているかもしれないから」という横暴がすぎる主張で大勢の命や健康、自由、安全、土地、文化、産業といったあらゆるものを奪われなければならないのか、どうして自民党の犯罪者達は逮捕もされずのうのうと政治家面をしていられるのか、どうして改憲などと言って泥棒が泥棒に都合の良い法律を作るのか、どうして今まで都知事をやってきた人が選挙を前に「大改革!」などと宣えるのか、どうして選挙ポスターを貼る場所で特定の国や性別に対する差別を扇動できるのか、もう本当に何もかも心底嫌になる。こういう悲しみや怒りも、「マインドフルネス」によってニュートラルな考えに仕立て上げなきゃいけないんだろうか。去年の今頃の日記を見返すと、そっくり同じようなことを書いていた。そして、「差別に対して怒ったり失望したりするのは当たり前で自然なこと」「差別に遭遇して怒りや悲しみを感じた時にするべきことは、認知行動療法だのマインドフルネスだので私個人の考えや気持ちを整理して鎮めることではなく、存分に怒って差別にNOと言うこと(思うこと)。差別に対して怒ったり悲しんだりできる自分であること」とも書いていて、去年の自分と固く握手したいような気分になった。分かってるじゃん。怒らなきゃならないような暴力や差別が起きていることは悲しむべきことだし、そうしたものはなくしていかなければいけないけど、暴力や差別に対して怒りや悲しみを抱ける人間であること自体はむしろ良いことなのかもしれない。良いも悪いも何も、人として当たり前のことかもしれないけど。
 夜、30分くらいかけて手当たり次第ノートに頭の中のものを書き出したら、脳内がデフラグだかデトックスだかされて少し落ち着いた。来年の自分と握手できるようなものが書けているといい。