カテゴリー: Essay

コーヒーさえあれば!

 コーヒーを飲むと、高確率でお腹を壊してしまう。別に日に何杯も飲んでいるという訳ではなく、カップに半分くらいの量でも来る。おいしいコーヒーを飲んだ爽やかな朝に毎回トイレにこもる羽目になることにいい加減うんざりしてきたので、コーヒー断ちをしてみようと思った。
 とりあえず、まずは一週間と期間を決めてみた。コーヒー自体はとても好きなので、今後二度とコーヒーを飲まないと決意できるだけの覚悟はないのだ。そして、あくまでカフェイン断ちではないという点も重要だ。もちろん、カフェイン自体をすっぱりやめることができたら、健康には良いだろう。だが、大好きなコーヒーのみならず、紅茶も緑茶も禁止というのにはいくらなんでも耐えられない。

 コーヒーを飲むようになったのは、確か高校生の頃だったと思う。授業中あまりにも眠いので、眠気を追い払うために飲み始めたのだった。最初はただただ苦いだけで、おいしいとはあまり感じられなかったけども、なんとなくかっこいいからという憧れもあり、見栄を張ってブラックコーヒーを飲んでいた。その頃はコーヒーを飲んでもお腹を壊すということはなく(過敏性腸症候群と診断されたことはあったものの)、その代わりに大抵なぜか頭が痛くなっていた。
 いつしかコーヒーと甘い食べ物の相性の良さに気付き、ブラックコーヒーを喜んで飲むようになった。加えて、頭痛はしなくなったと思いきや、お腹を下すようになった。朝に家でコーヒーを飲むとよく下すのだが、おやつの時間や夜などに飲むと、下さないことがある。外出先で下すことはそんなに多くない気がするのだけど、毎朝のようにコーヒーを飲んではトイレにこもっている事実を思うと、「万が一」の可能性を考えてしまいなかなか賭けには出られない。本当は、カフェなどで気軽にコーヒーを楽しみたいのに。
 カフェインレスコーヒーがあればそれを注文するが、どうも「コーヒーを飲んだ!」という満足感、脳にカフェインが侵入してくる独特の感覚がなく、いまいち物足りない気がする。味は普通のコーヒーにかなり近いもののはずなのに(そんなに舌が肥えている訳でもないと思うため)、何かが違う。学生の頃はさておき、今は別にカフェインを摂取したくてコーヒーを飲むのではなくおいしさを求めてのことなのだから、別にその独特の感覚とやらがなくても支障はないはずなのに、この虚しさは何だろう。
 もちろん、味が普通のコーヒーと異なるという場合もある。近くのスーパーで手頃な値段のカフェインレスコーヒーのドリップパックを買ってみた所、これがどうにも口に合わなかった。ただ雑味ばかりがするような、おいしいとは言い難い代物だったのだ。おかげで、なんとなく家で飲むコーヒーもカフェインレスに切り替えることはできず、「お腹を壊すけど、それでもおいしい方が良いから」と依然普通のコーヒーを飲み続けている。
 もう少し金額を出せば、よりおいしい「普通のコーヒー」に近いカフェインレスコーヒーが味わえるのだろうか?けれど、普段よく飲む物の値段のランクを上げるのにはちょっとした勇気が要る。いや、別に量をたくさん飲む訳でもないのだし、トイレに駆け込まなくて良くなるのなら冒険してみても良いのでは…。とりあえず明日からのコーヒー断ちの一週間の間に、コーヒーがないことに耐えられなくなったら、良さそうな物をネットで探してみよう。

 そう、コーヒー断ちは明日からだ。今朝はもう飲んでしまったのだ。そして、派手にお腹を壊した。コーヒー好きを自負する人間が「コーヒーをやめた方がいいかもしれない」と思い知るほどには。メンタルの健康には腸内環境が密接に関わっていると聞くことがある。詳細は知らないけれども、セロトニンがどうとかいう話らしい。そうでなくとも、腸の調子を整えることで、長年の宿痾たる顔面の肌荒れも治るかもしれない。もちろん、メンタル面が安定するならもちろんそれに越したことはない。健康のためには、コーヒーを控えた方が良いというのはよく分かっているのだ。ただ、コーヒーに対する執着、つまり食欲がそれを妨げているだけで。
 わざわざコーヒーミルを買うくらいにはコーヒーが好きなのに、本当にコーヒー断ちをする必要はあるんだろうか。コーヒー無しに甘いお菓子を食べる空虚さに耐えられるだろうか。本当に健康のことを考えるなら甘い物も揚げ物も食べない方が良いのに、実際は食べているんだから、コーヒーくらい良いんじゃないか。お酒も滅多に飲まないんだし、コーヒーくらい……。しかし、そうやって脳内で囁く悪魔の声を思わず退けたくなるくらいには、今朝はトイレで疲弊した。食べ物の話とトイレの話を行き来して申し訳ないけれども、事実だから仕方ない。
 とにかく、とりあえず一週間だけコーヒー断ちをやってみよう。明日から。

一日目
 コーヒー断ち開始。朝食のジャムトーストをひと口かじる度に、「コーヒーを飲みたい」という欲求が募る。口の中が甘い。コーヒーの苦さでリセットしたい。私が作ったさくらんぼジャムは、甘さと酸味のバランスが程良く我ながらとてもおいしいものだけど、コーヒーがあればもっとおいしいはずなのだ。コーヒーがないと朝食のおいしさが半減するとまでは言いたくないけれども、明らかに物足りない、肝心なものが欠けている感じがする。それから、朝を迎えたという気分にもならない。頭がすっきりせず、半分寝ぼけたままで朝食を食べているような気になってくる。別に、そこまでコーヒーに依存しているつもりはなかった。ただ味が好きだから飲んでいるだけなのだと自分では思っていた。ところが、コーヒーを断って一日目、早くもコーヒーを求めてしまっている。せめて豆の香りだけでも嗅ごうかと魔が差したけれども、余計に飲みたくなるということは分かっているのでやめておいた。とりあえず、ネットでカフェインレスのコーヒーを見繕い、注文した。

二日目
 コーヒーに代わる飲み物が欲しくて、温かい紅茶を淹れてみた。しかし、やっぱり何かが違う。紅茶は紅茶でおいしいのだが、本当に欲しいのはコーヒーなのだ。甘い物のみならず、甘くない総菜パンを食べるのにすらコーヒーを求めてしまう。あの豊かな香りと鮮烈な苦みが恋しくてならない。恋しいというより、依存や離脱症状といった状態に近いものすら感じる。恐ろしい飲み物だ。朝食を食べてしばらくした後、コーヒーを飲んでいないにも関わらずお腹を壊してしまった。原因は紅茶しか考えられない。どうせお腹を壊すならコーヒーを飲みたかった、という自棄な思いがよぎる。調べてみると、紅茶に含まれるカフェインの量はコーヒーの半分程らしい。カフェインの他に原因として考えられるタンニンはというと、見たサイトによって異なるものの、コーヒーのそれを紅茶が上回るということはないようだ。原因はカフェインか、タンニンか、その両方か、あるいはどちらでもないそれ以外の要素なのか。何にせよ、私はおいしいコーヒーを飲みたい。できればお腹を壊さずに。
 午後、ファミレスのドリンクバーでアイスティーを飲んだ。氷を入れたグラスに並々注いで飲み干しても、外出先だったせいかお腹はなんともなかった。調子に乗って、オレンジジュースと温かいアールグレイもおかわりするも、やはり大丈夫だった。それにしても、ファミレスのドリンクバーが470円なんて、随分値上がりしたものだ。自民党が裏金作りのために税金をむしり取っている弊害が庶民の暮らしに如実に現れている。
 スーパーで、買うつもりのないコーヒー豆をじろじろと眺めた末に、600円程度の安いコーヒーミルを買ってしまった。自分が既に持っている木製のミルは見た目こそ良いものの、分解したり洗ったりということができない。今日買ったミルはというと、分解も洗浄もできて、手軽に豆を挽くことができる。自分にはコーヒーをやめるつもりなんかさらさらないことがよく分かった。多分、このコーヒー断ちの一週間を乗り越えられたら、ご褒美のようにこのミルで豆を挽いてコーヒーを淹れるのだ。すっかりカフェインが抜けきった状態で味わう一週間ぶりのコーヒーは、どんなにおいしいだろう。

三日目
 大好物であるミルククリームを挟んだ柔らかめのフランスパンを、コーヒー無しで食べるなんて。コーヒーがない朝食に、毎朝新鮮に落胆している。恐ろしいのは、まだコーヒー断ちは3日目で、一週間の折り返し地点にも達していないということだ。

四日目
 朝食後、お腹を壊してしまった。食べたものは普段と特に変わらない内容で、今日はコーヒーも紅茶も飲んでいない。飲んだ物といえばミネラルウォーターだけだ。こうなると、コーヒーが原因ではないのではないか。確かに、コーヒーが症状をより悪化させるような気はするものの(コーヒーを飲んだ時の方がより確実にお腹を壊すため)、コーヒー無しでこの壊しようなら、そもそも消化器官の調子が良くないのではないだろうか。内科に行くべきか。また過敏性腸症候群と診断されるんだろうか。甘い物や刺激物は控えろなどと言われたらかなりつらい。筋金入りの病院嫌いであるから、病院に行くとなると元々重い腰がますます重くなる。ところで、コーヒーを飲まなくてもお腹を壊すのであれば、もうこのコーヒー断ち自体をやめてもいいんじゃないか。私は何の意味もない苦行に励んでいるだけなのではないか。

五日目
 先日ネットで注文したカフェインレスコーヒーが届いた。開封すると、通常のコーヒーと何ら変わりないコーヒーの芳香が漂い、久し振りに嗅ぐコーヒーの香りに包まれて幸福な気持ちになった。
 待ちに待ったコーヒーを淹れる。カフェインレスだが、ネットでも評判が良い商品だったのできっとおいしいだろう。さっそくドリッパーにセットして湯を注ぐ。期待した程の香りは立ち昇らない。コーヒーの香りではあるが強くなく、カフェイン有りの通常のコーヒーのような鮮烈な香りではない。見た目はコーヒーそのものだ。ひと口飲むと、味はそんなに悪くはない。しかし、淹れ方の問題なのか、苦みが少ない。飲みやすくはあるものの、苦みも香りも薄いので、コーヒーを飲んでいる感じがあまりしない。ごく薄いコーヒーのような、出涸らしのような感じさえする。また、コーヒーを飲んだ時の、カフェイン特有のあのしゃきっとする感じももちろんない。私はコーヒーを求めているのか、それとも単にアルカロイド(カフェイン)を求めているだけなのか?前者であって欲しいと願いながら、板チョコのかけらを口に放り込み、それを食べてからコーヒーを啜る。やはり、もう少し苦みが欲しい。香りも。

六日目
 朝食時に、カフェインレスコーヒーを飲んだ。昨日のは淹れ方の問題だったのか、今日は苦みがまああるように感じる。それでも、本来のコーヒーのものと比べたらやはり少ないんだろう。香りがとにかく薄く、物足りなさを感じる。

七日目
 今日もカフェインレスコーヒーを飲む。どうにも香りの薄さが気になる。コーヒーの魅力の大部分はあの芳香が占めているらしいことを、改めて思い知らされる。朝食を摂ってしばらく経ち、お腹を壊した。このコーヒー断ちにもはや意味はない。しかし、ここまで来ると意地でも一週間のコーヒー断ちを完遂したい気になっている。なんにせよ、今日の一日さえ我慢すれば、明日はコーヒーが飲める。芳醇なアロマと香ばしい苦み、そしてカフェインの刺激を併せ持つ本当のコーヒーが。

 ようやく、コーヒー断ちの一週間が空けた。カフェインレスコーヒーを飲んでいるので厳密なコーヒー断ちではないものの、カフェインを含んだ「本物」のコーヒーが入ったカップを目の前にした今、そうした些細なことは気にならない。
 飲んでみると、一週間ぶりに目が覚めたような心地がした。ぼんやりと霞がかっていた脳内がたちまちクリアになる。ふくよかな香り、こくのある苦み、そして頭も身体もすっきりと目覚めるこの感覚。やはり、コーヒーはこうでなければならない。カップ一杯のこのコーヒーがあることで、朝食もより一層おいしさを増す気がする。
 飲む量はともかく、こうなると自分は立派なカフェイン依存なのかもしれない。お腹を壊してトイレに篭る羽目になるリスクを冒してまで、私はカフェイン入りのコーヒーを求めてしまうのだから。例外なく今朝もお腹を壊したが、心は満ち足りている。

 午後、購入していたコーヒーミルを使うことにした。この日を楽しみにしながら、洗って乾かしておいたのだ。がりがりと音を立てて豆を挽く。思っていたよりも豆が硬く、ミルを抑える左手が痛いくらいだ。手こずっている間に、沸かした湯がどんどん冷めていく。取り出した挽きたての粉は素晴らしく良い香りで、若干震えている左手など問題にならない。慣れない作業でうっかりテーブルに少しこぼしてしまったが、こぼした粉もまた香りが良い。
 そうして淹れたコーヒーは、濃く、かなり苦かった。とても苦い。カフェインレスの苦みの少なさを嘆いてはいたが、何もここまで苦くなくても良かったのにと思うほどの苦みだ。しかし、この苦みをこそ求めていたのだ。そして、香りがまた最高で、鼻からカフェインが脳に到達するような刺激的な香りが非常に良い。飲んだ途端に心身が覚醒し、頭が働き出すような心地良さ、これこそ脳が求めていた化合物だ。
 私はこのアルカロイドが大好きだ。依存でもいい、この毒物の虜になっている。いつにない早さで、腸も刺激されてきた感覚がある。即効性があるようだ。しかし、今回はお腹を壊さなかった。

 結局、10日間ほど記録してみるとそのうちの7日はお腹を壊していたことが分かったので、気が向いたらそのうち内科に行ってみるかもしれない。お腹を壊すのは大抵朝食後なので、コーヒーが原因ではなく、多分お腹を壊しやすい時間帯なのだろう。そういうメカニズムがあるのかは分からないが、コーヒーをやめるつもりは微塵もない。
 バッハのコーヒー・カンタータでは、コーヒー好きの娘に対して父親が「コーヒーをやめない限り、男性と結婚はさせない」と言い張り、娘にコーヒーを飲むことをやめさせようとする。私はこの国の婚姻制度を利用しないと決めているし、結婚というものに何らの魅力もメリットも感じず、また自分が異性愛者かも分かっていないため、私なら迷わずコーヒーの方を選ぶ。それはさておき、娘が父親と家父長制に抗って引き続きコーヒーを楽しみ続けるという内容の、フェミニズム的な色が濃いコーヒー・カンタータのパロディがあったら、ぜひ見てみたい。異性愛者同士で番う必要を感じることなく、幸せにコーヒーを嗜むクィアな娘の姿が描かれていたら、どんなに嬉しいだろう。いや、私自身が自分でそれになってみればいいのだ。世間から「当然こうあるべき」と強いられる在り方から悠々と逃れ、自分が本当に望むものだけを優先して大事にする。異性愛者の男性との婚姻に一切関心を持たず、「社会人」として望ましいとされる「健康」な状態を目指して義務のように己を律することもなく、自分にとって良いもの、自分が心から求めるものをこそ追求する。一杯のコーヒーが私自身の理想とする生き方を思い起こさせ、エンパワメントしてくれるのだ!
 一週間のコーヒー断ちを経て分かったことは、自分が思っていた以上の頻度でお腹を壊していたことと、自身のコーヒーに対する熱意や執着もまた自分が思っていた以上に強いものなのだということだった。そして両者を秤にかけた時、重くなるのは明らかに後者だ。ならば仕方ない。コーヒーを飲むことへの免罪符を手に入れたような気持ちになりながら、午後のコーヒーを淹れることにしよう。

自殺未遂

※注意:自殺未遂の具体的な描写が含まれます

日記
 五月二十二日。午前十一時服毒、一、二時間後激しく戻し始めて気が付けば十四時過ぎ、母に電話して精神科へ。総合病院へ移り処置(採血、心電図、血ガス等)を受ける。服毒後三、四時間経っているので胃洗浄は間に合わない。ひたすら「点滴をじゃかじゃか入れて」輸液で体内を洗い流す。「ニコチンがまずいですね」の一言に震え上がる。夜にやっと吐き気が収まり、手足の痺れは夜明け近くまで取れず。
 五月二十三日。様子見と精神病院のベッドが空いていないのとで一日点滴に繋がれる。朝戻したので点滴で吐き気止めを摂り、昼から普通に食べるようになる。自分が臭くて臭くて苦しい。毛穴からニコチンとカフェインが出ている感じ。夜は完食。手足の痺れようやく取れ、夜は熟睡。枕が固くて首と肩がバキバキに凝る。

 生きているのがあまりにつらくて、大学時代から四年間ほど自殺計画を練りに練っていたのだが、ついに決行した。うつ病ではないが、社交不安障害とそれに伴う抑うつ状態ですっかり思いつめていたのである。遺書を書き、臓器提供欄に○をつけた保険証を机に置き、スマホの中の見られたくないデータやSNSアカウントを削除した。この頃太宰治の『人間失格』や『もの思う葦』、芥川龍之介の『或旧友へ送る手記』や『或阿呆の一生』など鬱々とした文学作品ばかり読み耽っていたが、芥川の『歯車』はすごかった。死にたい気持ちにぴったりしっくり来て、もう私には自殺しかない、自殺をしよう、と後押ししてくれたありがたい本である。本当にすばらしい作品だが、今現在抑うつ気分にある人にはおすすめしない。

 さて自殺当日。家族が全員出かけてから、帰ってきた時には死んでいるつもりである。洗濯や片付け等家事を済ませ、どういう心理だったのか分からないが、なぜかレモンカード(レモン果汁入りのカスタードクリーム)まで作って「二、三日中に食べてね」とメモを添えておいた。時刻は午前十一時。まず、あるだけ(の導眠剤確か十二錠ほど)と吐き気止めを飲む。それから致死量のニコチンとカフェイン錠剤を飲むのだが、これが非常にまずかった。味である。見た目はコーヒーそのもののニコチン水溶液は舌にびりびりとした刺激があって、苦いともなんとも言えないただただまずい味、あきらかにこれは人体に有害だと分かるような味だった。畳を食べたことはないが、畳を食べたらこんな味がするだろうというような、埃っぽい草の香りもあった。とにかくあれは毒だった。ニコチンとカフェイン、二種類の毒にしたのは、一種類では心もとなく確実に死ねるようにと思ったからである。口直しに、好物のブランデーを今まで飲んだことのなかった濃さでひとくちあおって、それから布団に横になった。
 布団といっても、「人は死ぬとあらゆる体液が流れ出る」という予備知識をダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』辺りで読んで学んでいたので、シーツの上には百均で購入した広い防水テーブルクロスを敷いており、体液で布団や床を汚す心配はないようにしてある。せっかくだから毒が効いてくるまでの記録を録っておこう、という魂胆で枕元に用意していたノートに、思いついたことを書いていく。ニコチン溶液はまずかったよとか、私のことは気にせずに家族の皆は幸せになってねとかそういうことを書いた気がする。いくら穀潰しのニートでも、私が死ぬことで家族が幸せになるはずはないのだが、抑うつ状態になるとこの辺りの判断がつかなくなるようだ。計画では、導眠剤が効いてぐっすり眠りに就いた後に毒が回って寝ているうちに死ねる、という予定だった。なぜかこの時、頭の中でマルコム・アーノルド作曲の「パドストウの救命ボート」が流れていた。

 じわじわとニコチンが血中の酸素供給を妨害し始めたのか、手足の先と頭がひんやりと貧血のように痺れていく。このままゆっくり死んでいくのかと思っていたら、服毒してから二時間ほど経って、ものすごい吐き気が襲ってきた。吐いたら死ねない、と思う余裕もないほどの吐き気、吐き気、吐き気、あらかじめ用意していたごみ箱に吐くも、ごみ箱一個じゃ足りないほどに戻した。テーブルクロスの上にもゲロゲロ吐いて、もうこれ以上は出ないだろうと思っても出るわ出るわ、ニコチンとカフェインが溶けたらしい茶色い吐瀉物が驚くほど胃から溢れてくる。溶けきれなかったカフェイン錠剤が直径一ミリほどの小さなピンク色の粒になって出てきた。いったん吐き気が収まった隙に脱いだTシャツで枕元を拭き、ああだいぶ戻したけど今度こそ死ねるかな、と横になるとまた吐き気。ごみ箱は吐瀉物とティッシュで埋まっているがそれでも吐き続ける。とにかく吐き気がすさまじい。吐いて疲れて横になってまた吐いて、横になっても起き上がっても己の吐瀉物の臭いがまた吐き気を催して戻す。戻し続けるうちに段々疲れてきて、頭も冷静になってきた。とにかく臭い、気持ち悪い。吐きながらノートに「これで死ぬなら死ぬけど、死ねなかったらまずシャワー浴びたい」「シャワーか湯灌か浴びさせてくれ」と書き殴りながら吐く。
 吐きに吐くうちに、「たぶんこれは死ねない」とうすうす気付き始めた。そこで二個目のごみ箱が置いてある廊下までふらつく身体で這いずってそれを抱えながら階段を一段一段降り(その最中も戻しながら)、五百ミリリットルペットボトルのお茶を飲み飲みトイレに吐いて、飲んでは吐き、飲んでは吐き、二本目のペットボトルを取りに這い出した辺りでもうふらふらになって床に寝転がってしまった。「自殺未遂は保険が利かないらしい」といういらぬ情報をネットの海で聞きかじっていたので、母の携帯番号に電話する。ごめんお母さん、自殺しようと思って毒を飲んだんだけど死ねそうにない、病院連れてってくれないかな、みたいなことをへろへろになって笑いながら言った気がする。
 すぐに母が職場から帰ってきてくれた。その間に自分は吐きながらもベルトを外して楽にし、力を振り絞って新しいTシャツに着替えていた。さすがに上半身裸で病院へ行きたくないと思うくらいにの理性はあった。ひとりでは立ち上がれないので母の肩を借りて車に乗り、かかりつけの精神科に連れて行かれた。車の揺れはひどく、車の中でも吐き続けた。

 精神科に着いて車椅子に座らされ、起き上がっているのがきついと訴えると処置室の寝台に寝かせてもらえた。日頃からお世話になっている臨床心理士さんが来てくれて、私の手を握って話を聞いてくれた。ごめんなさいもうしません、生きているのがきつかったから死のうと思ったけど死ぬほうがきつかった、凝りました、というようなことを泣き笑い戻しながら訴えた。この時母が始めて鼻をすすったのだが、これはこたえた。
 案内状を書いてもらい、その後すぐに市立の大きな総合病院へ移った。精神科を出る時、ふらふらになりながらも私がへらへら笑っているので、看護師さんには「なんて元気な自殺未遂患者」と言われたらしい。もうこの時には、死にたいという気持ちはなくなっていたようだ。とにかくすっきりしたかった。総合病院のベッドに横になり、飲んだ薬と量を伝えて、採血三本、初めての血ガス等の処置を受ける。その間にも「ごめんなさいもうしません」を言うと、「そうですね、もうしないでください」と苦笑まじりに返された。「胃洗浄は死ぬよりきつい」という情報をネットで仕入れていたのでびくびくしていたが、服毒後三、四時間経過しているので胃洗浄では間に合わないらしい。そのため点滴で輸液をどんどん流し込んで血液を洗い流すことになった。胃洗浄の恐怖が去ってほっとしたが、看護師さん同士の会話に聞こえた「ニコチンがまずいですね」の一言には震え上がった。
 部屋は運よく個室を用意してもらえた。落ち着いてくると、昼間吐瀉物の中でのたうち回ったせいで、自分が臭くて臭くて不快で仕方ない。しかも手足(肘から先と膝から先の辺り)がやたら痺れてもぞもぞ動き続けなければならず、眠ろうにも眠れない。寝たら、寝ている間に手足が麻痺して動かなくなるのでは、という恐怖もあった。しかしあれだけカフェインを摂ったのだから眠れるはずがない。胃が空なのとそもそも刺激物を致死量摂ったせいか、胃も痛い。臭さと痺れと気持ち悪さと痛さにさいなまれながら、付き添って部屋で寝ていてくれる母の寝息を聞いていたが、こんなに長い夜はなかった。やらかしたことがことなので、再度危険な行動に出ないよう家族が付き添っているよう病院に言われたのである。朝になれば回復する気がして、とにかく早く夜が明けてほしかった。午前三時くらいまでは起きていた気がするが、それからやっと寝ついた。

 朝起きると、吐き気も手足の痺れもずいぶん治まっていた。頭の中では、なぜかベートーヴェンの交響曲第六番「田園」の第一楽章冒頭が流れていた。毒を飲む時には「救命ボート」が流れていたが、あれは自殺が未遂に終わり生き延びる伏線だったのだろうか。様子見と精神病院のベッドが空いていないのとで、もう一晩点滴に繋がれていることになった。しかし臭い。臭いので、よろよろ立ち上がって母に頭だけシャンプーで洗ってもらうも、それでも胃液とカフェインとニコチンの臭いが取れない。汗からも毒物が排出されているのか、毛穴という毛穴が臭く、膝を嗅いでも臭かった。起き上がっているとふらつくしTシャツの襟ぐりが臭い、寝ると自分の頭が臭い、どんな姿勢を取っても臭く、これは苦しかった。痛くもかゆくもないはずなのに、ただ臭いというだけのことがこんなにつらいとは知らなかった。まだ水を飲んでも戻すので、運ばれてきた朝食には手をつけなかった。その後吐き気止めを処方してもらい、昼食からなんとか食べられるようになった。もっとも、一日半食事をしなかっただけで顎の筋肉がすっかり退化してしまったように、口も開かない、噛むと疲れる、なかなか食事が進まなかったものの、夜は完食できた。
 死にたかった理由や経緯を両親に洗いざらい話してしまうと、臭いはともかく気分はすっきりした。のたうち回って苦しんで命拾いした今となると、どの理由も何も死ぬようなことではないな、と思えるから不思議である。たぶんこの時には抑うつ状態は治っていて、ただ自分の臭さにいらいらしているだけだったと思う。
 ベッドから動けずできることも気力もないので、ただ親と話したりテレビを観たりしていたが、確かたまたまこの日テレビでハプスブルク帝国の歴史番組をやっていて、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の言葉が紹介されていた。

私は生きている しかし いつまで生きるのかを知らぬ
私は死ぬ しかし いつ死ぬのかを知らぬ
私の旅は続く しかし どこへ行くべきかを知らぬ
不思議なことに 私は幸福だ

これを聞いて親とげらげら笑い合えるくらいには、心身ともに回復していた。私は幸福だ!

 一晩ぐっすり眠って翌朝になると、生命力と食欲がみなぎっていた。点滴を外してもらってひとりでシャワーを浴びたが、これがもう幸せでたまらなかった。頭は念入りに二回洗い、毒物を含んだ汗をすっきり洗い流して、そのとてもたまらない快適さを噛み締めた。「臭くない!臭くないってすばらしい!頭も手も臭くない!嬉しい!」とはしゃぐくらいには元気になっていた。臭くない、清潔である、これだけで生きている意味だか意義だか、とにかく人生の幸せはある。食事は朝昼きちんと食べることができた。食べ物がおいしく感じられることの幸せがまたすばらしかった。ふとした拍子に『人間失格』の葉蔵よろしく「ふふふふ」と笑いが出てくる。病院の枕が固く合わなかったため首と肩がバキバキに凝ったが、点滴に繋がれたまま肩をぐるぐる回して、起き上がっていてもめまいがしない喜びを満喫した。とにかく、食べなかったぶん弱った他は、心も身体もぴんぴんしている。
 血液検査の結果もよくなったらしく、午後には精神病院へ転院することになった。私の旅は続く。私は幸福だ!